今日はインターンを休んだ。最近は毎日コチュジャン用の唐辛子を35キロずつ洗って軸を取ってカットして干すということをやっているが(私は唐辛子を種類別に呼び分ける言葉を持ってこなかったけど、コチュジャン用の唐辛子は一般には「Gochu」という。でもmimiの彼らもその唐辛子を他と一緒くたに「Chili」と呼んでいる。Gochu以外の唐辛子「Turuncu」なども一緒に入荷しているからかもしれない)、そのせいで首から始まる背面痛がひどくなって熱を出しそうなので、早々に、今日は頑張るまいと諦めてゆっくりしている。
古くなったパンで作っておいたパンがゆをレンチンして食べる。サワードウで作るパンがゆは、チーズのような酸味とコクがあってとても美味しい。日本で手に入る食パンやフランスパンではこうはならないだろう。自炊メインの暮らしは再び久しぶりで、ベタにザワークラウトとか、きゅうりの浅漬けとか、そういうものを作ってはすぐに飽きそうだとぼんやりしている。料理人を名乗れない。誰かが見て笑うだろう。
おとといから新たなインターンの女性がドイツの別の都市からやってきた。言語や人種が違ってもわかる、典型的に溌剌とした話ぶりで、私は圧倒されて英語がうまく出てこなくなった。彼女はこれから発酵野菜のビジネスを始めたいという。普段はリサーチの仕事をしているので、mimiの仕事は体力勝負でとても大変だと困り顔で話していた。これから勉強を始めるところなのだろうが、発酵食についての話がほとんど噛み合わず、なるほど、まあそうですよねと、胸の奥が滅入った。
数日前の自分の言葉:「保存食をつくる行為って、”消費”とは対極にあるような行為だったはずなのに、もはや消費的な楽しみかたしか残されていないのかと気がついて、それが私の怒りや違和感なんだろう」
しかし、果たして自分はそのどちら側にいるのか?考え始めると最悪だ。
ここでいう消費とは何か(『暇と退屈の倫理学』を持ってきてよかった)。では保存食や料理をする行為が本当にその対極にあるのだとしたらなぜそう言えるのか(これにはインゴルドが役に立つのだろうか)。読むべき本はなんだ。
引き出しの少なさや、流行り言葉をすぐに使って「わかりやすく」したがる弱さに辟易とする。私のやっていることは学問でもなんでもない。強度がない。ただの生活者だ。
脱する方法はなにか。脱する必要はあるのか。

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