日記を再び書き始める。誰にも見られないところに書いていたけどそれでは意味が薄れるのでこちらに載せる。
内側の、しずかな、何にも成らない葛藤ばかりで、なんという意味のない生命だろうといつも辟易している。昨日、和辻哲郎の「生きること作ること」を読んだら、彼のような哲学者ですら書いては落ち込み落ち込んでは書きを繰り返していたと知り、私もこれでいいんじゃないかと気楽になって、しかしまた落ち込むを繰り返していた。一生これなのか、後悔するだろう。
昨日は中高の旧友とドイツ北の城下町シュヴェリーンへ訪れた。私は事前に歴史を勉強するのが好きらしい。行ってから思いつくであろう疑問の数々を事前にインプットしておいて、できるだけ美しさの発見やなるほどに自分の脳を費やしたいのだ。友人はタイプが違うようで、まるでスタンプラリーをこなすように、行ける限りの観光地をリストアップし、ルートを確保し、とにかく一目でも多くのものを見るということが旅の目的のようだった。学生当時から別に気の合うひとだと思ったことはなかったが(嫌いはない、ただ趣が違うだけ)旅となると顕著にあらわれるのだなとぼんやり思い、人を深く知りたければ長旅はいいものだなと思ったりした。
しばしば嫌いなものに気が付いては、なぜ嫌いかと考え、自分の内側にそれがあるからだと気がつき、過去の言動が恥ずべきものだったとつらく思っている。しかしその欠点を埋めるにはもはや自分は形作られてしまっているとも気づき始め、結果として関わるものごとひとが減っていく。大人とはそういうものか。いやだと気が付いても、受け入れてはいたい。緩衝地帯。

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