ステイトメント(仮)
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食と自然の民藝運動がしたい。
はじめて勤めたレストランを退職し、世界一のレストランとも言われるnomaの研修を終えたあと、私は薮の中か砂漠にひとり残されたような気持ちで日々を送っている。どこに向かっているのかわからない。ジグザグとしたわかりづらいキャリアパスを歩んできた私に積み重なった実績や肩書きなどはなく、暗中模索そのもの、こんなにも「何がしたいのか」を根本から問われる日々はなかった。
料理人になりたいの?発酵の専門家?自分のお店をやるつもりはあるの?
何度も、どんなひとにも聞いてもらった。しかし私はその質問のどれもにはっきりと答えられず、時によって言うことが変わり、会話を重ねるたびに自分の一貫性のなさに幻滅し、口だけの嘘つきだと思い始め全く嫌になっていた。何がしたいんだ。結局なにもしたいわけじゃないのかもしれない。そのうち周りからも見放されるだろうと。
それも一部本当かもしれないけれど、私は飽き足らずさまざまなものごとに首をつっこみ、なまもののプロジェクトたちに関わらせてもらい、どんな社会を描いていきたいのか考え続けた結果、ひとつの地点に辿り着いた。
「食と自然の民藝運動」のようなことがしたいのではないか。
この言葉になにができるのか、伝わるものがあるのかは、まだわからない。本来の民藝運動のすべてが当てはまるわけではなさそうだし、そもそも私の理解も及ばない。
コロナ禍に出会ってから何度も読み直している書籍「藝術2.0」(熊倉敬聡著、春秋社、2019年)によると、「藝」の字はいっぱんに使われる「芸」の字とは異なり(むしろ逆で)、「植えて生えせしむること」、つまり種をまいて育てるといった意味があるという。(ちなみに「芸」の字には、生えてきたものを刈り取るという意味があるらしい)
私がさっき用いた「民藝」が本来の「民衆による工藝」を意味するわけではないにせよ、私は食と自然の分野において、人々がその手で「種をまいて育てる」プロセスを重視して、その行為から受け取れる美について考え実践していきたいという意味で、今のところ「民藝」がいちばん近いのではないかと思う。
生活者自身がなにかをつくってつかうことで、外側に任せてしまっていた「正しさ」をこっち側に引き戻すこと、つまり「正しさ」の線引きが無数になり、グラデーションであることが前提で、わからなさや曖昧さや考えるちからがこの手にあるという状態に近づけるのではないか。
興味があるのは人の暮らしで、守りたいのは感性だ。 暮らしも感性も、油断するとすぐにどこかに行ってしまう。手の感覚が薄れてしまった人間が潜在的に抱えるつまらなさや不自由さ、そこから派生する「寂しさ」のようなものにいつのまにか飲み込まれている。ただ私の特性なのかもしれないけど。でも、料理をしているときと書いているときは、救われるような気がする。
私(たち)に失われてしまった「プロセス」の中に、まだ生きていけるような楽しみがあってほしい。嘆き怒り取り戻すのではなく、それについてゆっくりと、現在地から問いなおしたい。
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