2025年9月4日

mimi fermentsのインターンが終わってしまって、空白の平日を何とかやり過ごしている。先週末のレストランの仕事は毎日何度も思い出してしまうくらいひどくうまくいかなくて、久しぶりにかなり落ち込んでもいる。仕方がないのでひたすらに何かを発酵させ続ける日々。米麹、サワードウ、ザワークラウト、納豆、コンブチャ。何になるだろうか。でも賑やかで寂しくない、だからやりましょう、と自分に言い聞かす。

おとといから準備していたライ麦パン(ロブロ。ななおがデンマークから持ってきてくれた種を使った)を朝から型に入れ、2時間くらいかけて焼いた。結果としては失敗してしまった。どの段階で何が足りなかったのか、どういう状態になれば成功なのか、いろんなことがよくわかっていないが(問題だ)、発酵過程の生地の様子をストーリーに載せたら、日頃からパン作りをしているテレザから「Ah」「Chotto Matte」「It’s too late(間に合わなかった)」と落胆のコメントが入り、ああなんか急ぎすぎたらしいとわかった。中心がずっとネチッとしたままで、いくら焼いても変わらず、結局周りを焦がしてしまった。私も落胆したけど、焦げるまで焼いてみなければ原因の特定からはさらに遠ざかっただろう。分量が違うか、待ち時間が短いか。ちなみにどういうわけか味はめちゃくちゃ美味しかった。種と粉のおかげだろう。

ぶつぶつ言いながらキッチンで何かをしていたら、シェアメイトのりなちゃんが起きてきた。各々家事をしながら最近の話をして、暇?公園でバスケしない?と男子高校生みたいな誘いを受けて、ボールを持って公園に向かった。ドリブルしたのはいつぶりか。近所の公園にいくつもバスケコートがあるとは知らなかった。代わりばんこでシュートをしながら、バスケとは関係のない、これまでやこれからや友達の話とかをする。こういう話をするとき、居酒屋じゃなくてバスケコートでよかったのか。暑くて疲れて、コート外のコンクリートのベンチに座ったり寝っ転がったりしながら話を続ける。久しぶりに雲が流れるのを見た。コットンを引きちぎったみたいな切れ端が右から左に、さっきまでの形をどんどん忘れていく。きれいってああいうことだった気がするとか、こんなことまで思い出せるなんて贅沢なもんだなとか、話しながらぼんやり思った。

帰ってからビリヤニを作った。ビリヤニを作るのは初めてだ。こだわりすぎなければ、結構かんたんで美味しくて、具材の応用が効いて、かなり良い自炊だと気がついた。いつか我が家の味にしよう。きっと喜ばれるだろう。

書かなきゃと思いながら、なんか書き出せず、「暇と退屈の倫理学」を読み進める。もう今日読み終えてしまいたい。私のこの本がボロボロなのは、たくさん読んだからではなく、たくさん持ち運んだからでしかない。買ってから1年半経った。その間にいろんなことがあった。

そしてついに読み終えることができた。もはや情熱的に感じられた「結論」の章は、私にとっては泣けるものだった。ベルリンに来てまで(予測はできていたが)退屈している私について考えるためにも、私について考え飽きた先にも、思い出すべき部分がたくさんあったし、自分がやろうとしていることにもしっかりつながっていた。特に、この本でもっとも有名な一節「人の生活はバラで飾られていなければならない」に直接関わる文脈でウィリアム・モリスが再び取り上げられ、そのような「民衆の芸術」に「食」があえて付け加えられていたことは、私は忘れてはいけない。とにかく、持ってきてよかった。

さあ書かなくては。

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